試着室の前で、彼が言った言葉が忘れられない
黒か紺で買っておけば間違いないでしょ。
そう言って、彼は同じような色のカットソーを三枚、そのままレジに持っていきました。
私は棚に残ったベージュの一枚を見ていました。触ると、少しだけ起毛していて、指が沈む。彼の肌の色にはこっちのほうが合うのに、と思った。
言わなかったです。だってその日は、彼が久しぶりに服を買う気になった日だったから。水を差したくなかった。
一か月後。そのカットソーを着た彼と写真を撮って、後から見返して、指が止まりました。
顔が、灰色でした。
(あ、沈んでる)
ベーシックカラーとは何か。調べる人が求めているのは、たぶん定義でしょ。どの色が定番で、何を揃えれば失敗しないか。
黒、白、紺、グレー、ベージュ、茶。だいたいこのあたりが答えとして並んでいます。合っています。
けれど、その一覧を丸暗記した人から、なぜか野暮ったくなっていく。
言い切ります。ベーシックカラーに正解の一覧はありません。あるのは、あなたを沈ませない色と、沈ませる色。百人中九十九人は黒を安全だと信じているけれど、黒ほど人を選ぶ色もないと思っています。
定番だから似合う、という飛躍
定番というのは、組み合わせやすいという意味です。似合うという意味じゃない。
黒は他の色とぶつからない。紺はどんなパンツとも喧嘩しない。それだけの話。
なのに、多くの人が定番イコール自分に合うと読み替えてしまう。ここで最初のボタンを掛け違えます。
組み合わせやすさと、顔映りは別の話。両方を満たす色を探すのが、本来やるべきことでしょ。
顔から遠いか、近いかで基準が変わる
パンツや靴なら、黒でもグレーでも問題ありません。顔から離れているので。
危険なのは、上半身。特に首から上に接している面積の大きい服。
ここに合わない色が来ると、肌の色が引きずられます。血色が抜けたり、黄色く濁ったり。
つまり、ベーシックカラーを語るときは、上と下で分けて考えないといけない。この視点、意外と抜け落ちています。
あなたが沈む色を、見つける方法
専門的な診断を受けるのも一つ。ただ、家でできる確認方法があります。
窓際で、二枚を交互に当てる
自然光の入る場所に鏡を置いて、白い服と黒い服を交互に顔の下へ。
黒を当てたとき、顎の下に影が濃く出るか。目の下のくまが強調されるか。
白を当てたとき、顔が飛んで血色がなくなるか。逆にぱっと明るくなるか。
これだけで、自分がどちら寄りかが見えてきます。蛍光灯の下ではなく、必ず自然光で。人工の光は色を嘘つきにするので。
沈む人の逃げ道は、二つある
黒を当てて顔が暗くなる人。でも黒を諦めたくないという人、多いですよね。
逃げ道の一つ目は、首元に明るいものを挟むこと。白いインナーを一センチだけ覗かせる。それだけで顔の下に光が反射します。
二つ目は、黒を下半身に回すこと。上をベージュやオフホワイトにして、パンツで黒を使う。全体としては同じ色数なのに、印象がまったく変わります。
色を捨てるんじゃなくて、置き場所を変える。この発想があるかどうかで、手持ちの服の生き方が変わってくる。
ベージュを馬鹿にしていた男友達
知り合いに、ベージュだけは絶対に着ないと言い張っていた人がいます。
理由が、おっさんっぽいから。
気持ちはわかる。ベージュって、選び方を外すと確かにぼんやりします。特に、黄色みが強くて明るすぎるものは、肌との境目がなくなって顔まで曖昧になる。
彼が四十を過ぎたころ、私が半ば強引にグレージュのニットを勧めました。ベージュにグレーを混ぜたような、少しくすんだ色。
渋々着て、鏡の前に立って、しばらく黙っていました。
それから一言、これ、なんか肌がきれいに見えない?と。
思わず吹き出しました(笑)。そう言うと思ったよ、と。
彼はその冬、同じ色を三着買いました。今でも着ています。
本人が嫌っていたのはベージュじゃなくて、明るすぎるベージュだった。ひとくくりの名前が、選択肢を奪っていたわけです。
同じ名前の中に、無数の色がある
グレーだけでも、青みのグレー、黄みのグレー、濃淡で十通り以上。
紺も、黒に近い紺と、青が強い紺ではまったく別物です。
ベーシックカラーという言葉が危ういのは、この幅を一言で潰してしまうところ。
黒が似合わないんじゃなくて、その黒が合わなかっただけ。そう考えるだけで、店で服を見る目が変わります。
揃えるなら、この順番で
一から集めるとしたら、どこから手をつけるか。順番があります。
まず、顔に合う一色を上半身に
最初に買うべきは、自分の顔が明るく見える色のトップス。
これが一枚あると、下は何でも成立します。逆に、顔に合わない色ばかり増やすと、何を合わせても違和感が残る。
色の名前は問いません。それが灰色でも、緑がかった茶でも、あなたの顔が生きるならそれがあなたのベーシックです。
次に、下半身を静かな色で
パンツは黒、紺、グレーのどれか。ここは顔から遠いので、深く悩まなくていい。
三本あれば、どんなトップスとも組めます。
ただし、上下で同じ色を選ぶときは質感を変えること。同じ黒でも、片方がつるっとして片方がざらついていれば、単調になりません。
最後に、差し色を一つだけ
全部がベーシックだと、真面目すぎて退屈になります。
靴下、マフラー、鞄の色。どれか一つだけ、少しだけ外す。
私が地味に反応してしまうのは、この一つだけ外している人。全部が完璧に整っている人より、どこかに意思が見えるほうが、なんというか、人間らしくて目が留まります。
色数の上限は、三つ
おしゃれに見える人と、そうでない人の差。ここに出ていると思っています。
四色目から、急に散らかる
上、下、靴、鞄。この四つに全部違う色を配置すると、視線が定まりません。
三色まで。そのうち一色を大きく占めさせる。
たとえば、紺を七割、白を二割、茶を一割。この配分だと、見ている側が疲れない。
ベーシックカラーが便利なのは、色数を勝手に減らしてくれるからです。定番だから偉いんじゃなくて、散らからないから使える。
柄物は、色数に数える
チェックのシャツを着ると、その一枚で二色も三色も持ち込むことになります。
柄の中に入っている色から、他のアイテムの色を拾う。それが一番外しません。
柄の中にない色を足すと、途端にちぐはぐになる。私も昔、これで失敗しました。ボーダーのカットソーに、まったく関係ない色のカーディガンを合わせて出かけて。
はぁ…。駅のガラスに映った自分を見て、そのまま引き返したくなりました。
季節で、同じ色が別の顔になる
最後にもう一つ。ベーシックカラーは、一年中同じ効き方をしません。
夏の黒は重い、冬の黒は締まる
日差しが強い季節に黒を着ると、熱を吸っているように見えます。周りが明るいぶん、その一点だけ沈む。
冬は逆。空も服も暗い中で、黒がぴりっと引き締めてくれる。
同じ服なのに、季節が変わると評価が反転する。これを知らずに、一年中同じ色を着ていると、どこかの季節で必ず外します。
肌の色が変わることを、忘れないで
夏に日焼けした肌と、冬の白い肌。同じ人でも、二段階くらい違います。
夏に似合っていた白が、冬には顔を飛ばす。冬に決まっていた紺が、夏には重く見える。
だから、季節の変わり目に一度だけ、鏡の前で顔の下に服を当ててみてほしい。三十秒で終わります。
定番の一覧を覚えることに、たぶん意味はあまりない。
黒が似合う人がいて、黒に食われる人がいて、同じ売り場に立っているだけ。
今日クローゼットを開けたら、いちばん出番の少ない一枚を顔の下に当ててみてください。着ていない理由が、色にあるのかもしれません。
